ワルシャワ

レジスタンス、ワルシャワ蜂起の傷跡を歩く!

2018年7月29日〜8月1日




対ドイツ抵抗運動、1939年9月1日から!



ナチス・ドイツ軍護送車襲撃事件(1943年3月26日)現場
1942年夏に、ドイツ軍はゲットーのユダヤ人排除に取りかかります。
これに対し、ユダヤ人はゲットー内に戦闘組織を結成し、抵抗。

この抵抗運動のひとつ。1943年3月26日、組織は通称「メキシコU」作戦を実行しました。

組織がナチス・ドイツ軍に逮捕された幹部たちの奪還作戦を行った場所です。この作戦でレジスタンス側は死者3名をだしながら、25名を救出しました。

ドイツ側は翌日、報復で収監されていたレジスタンスの140名を射殺しています。

映画「戦場のピアニスト」でも描かれたワルシャワ・ゲットーと出入口はこの辺りです。

当時は武器庫だった場所。ここにはゲットーのメインゲートがあった。

最寄のトラム駅。Rausz Arsenal。



ゲットー戦士の地下水道脱出(1943年5月)の記念碑
1943年5月、ゲットーの戦士たちの多くは追いつめられ死んだ。逃れたユダヤ人戦士たち、40人は地下水道から逃れ、記念碑のあるこの地にあるマンホールから脱出した。

場所はプロスタ通り51番地。



現金輸送車襲撃事件(1943年8月12日、午前11時)、旧王宮脇

旧王宮広場から撮影。

レジスタンス側が市清掃局を装ったドイツの現金輸送車を待ち伏せ
したのが、王宮前のセナトルスカ通り。

作戦は2分で終了し、1億1000万ズロティを強奪しました。


その場所に説明板がある。



死の待合室、ウムシュラークプラッツ、トラム駅、PL Bankowy

最寄トラム駅、PL Bankowy
ウムシュラークプラッツは貨物列車の操車場だった。
ワルシャワがドイツ軍に占領され、ゲットー に住んでいたユダヤ人が収容所へ輸送されるようになると、ここが絶滅収容所行き列車の始発駅となった。犠牲者は30万人と、説明板に記載されている。

映画「戦場のピアニスト」で、主人公のシュピルマンとその一家がゲットーからこの駅に連れてこられ、収容所に向う列車に乗る列に並ばされる。友人、ヘスに助けられるシーンがあるが、その場所だ。

記念碑は長方形をしている。当時ユダヤ人が乗せられた貨物列車の広さだとのこと。




ナチス・ドイツ軍に市民30人が殺された場所(1943年10月26日)、トラム最寄駅、Ratusz Arsenal

碑の前に立っていたら、ポーランド人が碑文の意味を教えてくれた。




ワルシャワ蜂起、1944年8月1日〜10月2日



ポーランド銀行要塞
かってのポーランド銀行。
蜂起開始の1944年8月1日、ポーランドの蜂起軍はこの建物を包囲。3日から4日にかけて、銀行を占拠。その後、9月1日までの約1か月間ナチス・ドイツ軍の旧市街突入を阻んだ。

壁には銃弾を受けた跡がそのまま残っている。

場所はビェラィンスカ通り10番地。旧王宮広場から歩いて5分くらい。



ワルシャワ蜂起の記念日前日

記念日行事の練習だろうか?

お店で売られているコーヒーカップ



キュリー婦人博物館辺りの記念碑



ゲットーの跡!

かってゲットーがあったとこに建てられた文化科学宮殿。
ゲットーの南東の端に当たる。


文化科学宮殿の前に、石畳に嵌め込まれた
「ここにパィンスカ通りがあった」との印。


文化科学宮殿とal. Jana PawlaU通りを挟んだところにある現存しているゲットーの壁。

イェロソリムスキェ通りからワルシャワ駅の脇のal. Jana PawlaU通りを北に。2つ目の角を左折。民家の中庭に入ってゆくと見られる。



共産主義の時代!


1939年にソ連がポーランドに侵攻したときの慰霊碑。
トラムのDzika駅のすぐそばにある。


共産主義時代の自動車、ポルスキ・フィアット125.。
現在は観光に使われている。

文化科学宮殿、ワルシャワ案内に多く登場する。
レジスタンスやワルシャワ蜂起の足跡を巡るのは難解だった。街角で地図と睨めっこしていると、「お困りですか?」と市民が助けてくれたことが何度もある。

多くの市民に助けられて街歩きをしました。






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