上海

虹口:上海ゲットー、リトル・ウィーン


2011年12月29日



上海ゲットーへ

ユダヤ人が住んだハイムの跡。今は中国人が住んでいる。
地下鉄の東宝興路駅近くに宿泊しているので、リトル・ウィーンに行くには宝山駅で乗り換えて、最寄の大連駅までいくこととなる。

東宝興路駅では顔なじみになった駅員にわざわざ挨拶に行く。お互いに言葉を交わす会話力はないが、にこっと笑顔をかわすだけでも十分だ。

次の、宝山駅は高架になっていて、街の雑踏がよく見える。東横浜路よりもディープ度が高そうな路地が上海駅まで続いている。降りて、歩かなくちゃと思っていたのだが、機会がないまま帰国してしまった。


リトル・ウィーンの繁華街だった通り
大連路駅から舟山路までは歩いて7分くらいだった。迷うことはない。右手にリトル・ウィーンの西洋風の建物が現れる。

上海のゲットーに住んでいたユダヤ人はナチスの弾圧から逃れるために、旅券もビザもなくとも入れる上海に逃れた。ここに上海ゲットーが誕生した。

この地域は日本軍の管理地区だったらしく、日本の軍人はユダヤ人にかなりひどいことをしたらしい。第二次世界大戦で日本が負けると、軍人は報復されたと、本で読んだことがある。


建物はそのまま使われている。





今風を表すのはエアコンだ
舟山路に来る。ここにナチスから逃れて異国で暮らしていたユダヤ人がいたのかと目を閉じてみる。彼らはパンを焼き、花を飾り、映画をみ、ダンスを踊り、映画をみて……だが、生活の糧はどうやって得ていたのだろうか。

ちょうど白人青年がいて、建物の写真を撮っていた。彼らにとっては訪れなくてはならない地区なんだろう。

建物の前の道路が2車線ほど。建物が巨大すぎて、カメラに収まり切れない。アングルを求めて歩き始める。ノスタルジアを味わいたいのだが、エアコンの室外機がやたら多い。上海の湿気を乗り切るには必需品なのか。

この建物もレンガつくりだ。
ハイムに沿って歩いていくと、道路に突き当たる。そこにも巨大なハイムが現れた。こちらの方がよく保存されている。

ユダヤ人用のカフェの跡を探す。看板がないかとじっと目を凝らす。だが、レンガ造りの建物のどこにあるのだろう。みつからない。「ウィーン・カフェ」という店があったはずなのに。

路地の奥に分け入ると、廃墟が現れた






レンガ造りの家並、リトル・ウィーン

中ではおじさんが靴の修理をしていた。

写真のような看板があった。



ユダヤ難民上海記念館、摩西会堂跡

上海ゲットーの詳細を訊ねたが、案内人は
英語を話さないので、見学するだけになっ
てしまった。残念。

ユダヤ教会跡



霍山公園、ユダヤ難民の記念碑
ハイツの反対側に小公園があり、ユダヤ難民の記念碑があった。公園一帯に、ユダヤ人の収容所があったのだろう。他の公園と同じように、老人が日向ぼっこをしていた。

日本人の収容所監督官はユダヤ人の王だと自らを呼び、ユダヤ人を困らせていたらしい。弱いものには強く出る男はどこにでもいるものだ。



上海監獄辺り
上海監獄はかれこれ110年以上も使われているらしい。周囲は市場があったりして、ディープな雰囲気が残っている。この地域にもレンガ造りの建物が点在している。

向い側は上海監獄

朽ち果てた西洋風建築
かつてはお洒落な建物だったのだろう。レストランかカフェだったような建物が残っていた。今では、写真のように使われてはいるが、荒廃している。



このあと、尼寺の下海廟の煌びやかな金色のお寺をみて、帰途についた。駅への途中、これぞ日本家屋という建物が残っていた。

まるで日本にいるみたいだ。



味千ラーメン
東宝興路駅に戻り、夕食。
味千ラーメンに入った。牛焼肉重ご飯とカルビを注文した。しょっぱかったなあ。客が入らないわけだ。




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