上海

虹口、魯迅が暮らした日本人街


金子光晴が住んだ余慶坊、日本軍慰安所跡、路地の朝食

2011年12月29、30日




12月29日



金子光晴が住んだ余慶坊

余慶坊の外側
金子光晴は、上海に数度訪れている。余慶坊に住んだのは1928年の8ヶ月だ。

「陰謀とアヘンと売春の上海は、ニンニクと油と、煎薬と腐敗物と、人間の消耗の臭いが、まざりあった……」このように上海を「どくろ杯」で書いている。

表通りは四川北路、余慶坊と書いてあった。
現在の余慶坊は日本の旅行鞄の店「エース」の脇から入る。余慶坊は奥に広く上海特有のアパートが広がっている。
「へい、どなたでしゅ」
どくろ杯に長崎訛りの老婆が金子夫妻を迎えるのだが、今の余慶坊には日本人なんかいないのだろう。

当時は、糞槽を裏口に出しておくと、掃除夫がきて、糞尿をもっていき、槽を洗い流してもってくる。糞槽があるかなと思い周囲を見渡すが、そんなものはあるわけはなかった。


余慶坊、小奇麗になっている。

いかにも上海のアパートだ。


黒板に書かれた通知

洗濯物も健在です
四川北路に出ると、「エース」の店の前で、老人が布団に仰向けに寝ている。脇で金髪の20歳くらいの青年が頭を地面に擦り付けるように、激しく上下に振っている。
「父親が病気なので、カネを恵んでくれ」、ということなのだろう。寝ている父親は、病気なほどはヤツレテいない。顔の色もいい。

上海は金持ちもいるが、一日の生活費が1.25ドルという貧困者も多いのだ。避けて歩く人もいれば、カネを入れる人もいる。



日本軍の慰安所跡
横浜橋あたりから東宝興路までは歓楽街であったらしい。横浜橋のそばには歌舞伎座、ダンスホール、橋を渡ると、慰安所があった。

訪れたのは東宝興路125。ここには「大一沙竜」という最大級の慰安所があった。現在も建物は残っていて、中国人が住んでいる。当時の面影は全くというほど残っていない。わずかに、日本風の建物の残骸があるだけだ。

隣は高層アパート。ここも再開発という名で、取り壊されてしまうのだろうか。

修繕して使っているようだ。

裏側から一枚、パチリ。


12月30日


東横浜路で路地メシ

饅頭屋は人気がある。
前日、この路地を歩いたとき、朝食はここで摂ろうと決めた。屋台から上がる暖かそうな蒸気。通勤者は足を止め、饅頭を買って歩きながら食べる。なんとも美味しそうだ。

仲間に入れてもらいたい。東横浜路をもう一度、歩いてみた。
先ずは、饅頭。野菜とあん。2個、買ってみた。2.4元だった。熱くて、フーフー言いながら食べる。

ふかしているので、蓋を取ってもらった。

野菜が入っていた。

甘いのかと思ったが……。
饅頭屋の親父さんはいかつい顔をして、にこりともしない。饅頭を買おうとすると、怒られそうだ。でも、写真を撮りたかったので、蓋を開けてもらった。
「これでいいかい」
そんな感じだった。



お好み焼き? クレープ?

@先ず、小麦粉を薄く延ばす。→

A玉子を入れて薄く焼く。→

B油揚げを入れて折り畳む。→

Cお好み焼の出来上がり。3元。サクサクしている。



雑踏

パンは人気抜群



焼き芋

焼き芋、2元。西安や北京でも食べたことがあるが、この程度の値段だったんだ。すると、今までぼられていたんだな。焼き芋は甘く、買ってよかった。

日本のと違いますね。



この通りは東横浜路。路地のうどん屋でしみじみと食事をしている日本人の初老の男性を発見。思わず、「おいしいでしょうね」と声をかけてしまった。○○元ですよと。

まだ話しかけようとすると、拒絶反応を示した。せっかくのディープな世界を味わっているのに、日本人と話したくはないのだろう。




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