虹口:魯迅と日本の小説家の痕跡を求めて |
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地図は、「歩く上海」 |
第一次世界大戦のころ、上海にいた日本人は約1万人。第二次世界対戦中は10万人いたそうだ。 虹口には日本人用の病院、学校、商店、軍隊、新聞社、墓地、果ては慰安所まであったらしい。日本人はパスポートなしで、上海を訪れるのが可能だったとのこと。 そんな上海、虹口の日本人は、日本が戦争に負けたあと、だれひとりいなくなってしまった。 魯迅が、周恩来が、金子光晴が、芥川龍之介が、谷崎淳一郎が、吉行エイスケが住んだ街を歩くことにした。一日で回れるのか、二日かかるのか。全く予想もつかないまま、街歩きを始めた。 念入りにコースを考えた。 @横浜橋 A秦美路の路地歩き B東横浜路の路地と魯迅の家の跡 C多倫路にある魯迅の小説に登場する酒屋 D日本人学校、日本人病院の跡 E内山書店跡 F魯迅の住んだアパート G孔子の子孫の住んだ家 H日本の陸戦隊本部跡 I魯迅の旧居 J魯迅公園で記念館見学 K日本の慰安所跡 この通り歩けるかどうかは、ひとえに建物の跡を発見できるかどうかにつきる。朝食を済ませたので、街歩きを始めよう。 |
横浜橋 |
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写真の奥は地下鉄駅 |
ホテルの脇、東宝興路方面に川がある。そこに架かっているのが「横浜橋」。日本の横浜との関連はなさそうだ。ブーツを履いたお嬢さんが橋を渡っていく。彼女は「上海帰りのリル」ではありません。 橋の奥は地下鉄駅がある。「夢の四馬路(スマロ)か虹口(ホンキュ)の街か」ディック・ミネの歌を口ずさみながら歩く。いささか古い人間ですね……。 |
橋の脇に「横浜橋」と刻んである。 |
この橋を左に歩いていくと、東宝興路となり、今では四つ角に百貨店がそびえている。 |
「上海バンスキング」の舞台 |
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右の通りは朝食を食べた路地 |
横浜橋から50メートルくらい戻る。四つ角に、「上海バンスキング」の舞台となったダンスホール「ブルーバード」があったところ。今ではその面影はない。写真の通りは四川北路。左に行くと、旧日本人街となる。 |
アカ抜けたアパート |
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時代を感じさせるアパート |
なかなかお洒落なアパートです。 |
ここは1階に、お店があった。 |
四川北路を上っていく。西湖飯店を過ぎ、右手に時代がかったアパートを発見。門番に挨拶して、写真を撮る。 左の写真の奥は再開発されて高層ビルが建築されている。こういう上海特有の住居もいつまで持ちこたえられるのだろうか。 |
日本の高等尋常小学校跡 |
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現在も中学校として使用されている、旧日本人学校 |
秦美路の向いに小学校の跡はあった。道路を挟んで日本の病院もある。これらは現在も中学校、病院として使用されている。病院は魯迅の子供も通ったらしい。 |
学校の入口 |
学校では朝の集会が行われていた。 中に入るのはためらわれた。外から撮影した。生徒たちは溌剌としている。 |
元気そうな生徒たち |
中国も集団活動は衰えてきているのか。 |
魯迅が遊んだ喫茶店をすぎ…… |
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道路には通りの名前が出ているので歩き易い。 |
秦美路を抜けて東横浜路に出るつもりだ。 秦美路は期待していなかったのだが、向かいが日本の小学校や病院だったのだらか日本人の民家があったのだろうと、想像力を働かせることができないでいた。 |
歩いているのは、ワタシではありません。 |
日本の民家か? 突然現れた。 門構えや家のつくりからみて、日本家屋に間違いない。 「これって、日本の家ですよね」 通りすがりの中国人に尋ねてみたが、日本語なので通じるわけはなかった。中国人とわたしは言葉が通じないまま、首を捻りながら向き合っている。 「ほら、この門。日本、そのものじゃないですか」 |
こんな門構え、日本でよくみかける。 |
日本の門構え。 |
この2階屋、どこかで見たような。 |
路地が曲がりくねっている。日本を歩いているよう。 |
倉庫だったのか、商店だったのか。 |
上の写真の家を見ていたら、老人がやってきて、何やら説明してくれる。煙草の販売所だったんだよ、と言っているらしい。 「そうですよね」 うなずく。 「ほら、ここで売るんだよ」 赤く塗られた戸を指差す。隣の建物は解体されそうだ。路地のディープさにかなり盛り上がってくる。 |
リアル上海のディープな世界へ |
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突然、目の前がひらけた。ワンダーランドみたいな世界が出現。屋台、小さな商店、掛け声、客の叫び声。オー、中国じゃないか。 朝食を済ませてしまったことを悔やむ。明日こそ、ここで食事をするぞ。麺を売る店、小龍包、饅頭などなど。夢をみているようないい世界が出現している。ずっと佇んでいたくなるような路地だ。 |
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右側の店は「刀削麺」を食べさせる。奥は饅頭屋。 |
果物が豊富だ。 |
おじさんも日本で見かけるような服装だ。 |
パジャマ風で歩く女性も |
豆腐屋さん。きびきびと働いていた。 |
豆腐屋。道端で自家製豆腐の作り売り。きびきび働いている。ひとりで製造していた。ああ、豆腐を食べたい。 |
魯迅が住んだ家々 |
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ここを潜ります。 |
東横浜路を歩きながら、「景雲里」をみつけて歩く。細い路地を入ったところに魯迅が住んだ家があるはずだ。 魯迅は1927年から1930年まで、横浜路35−23に住み、その後、17号、18号と移り住んだ。 洗濯物が干してある路地をくぐり、番地を頼りに歩く。次第に魯迅に会えそうな気配がする。発見! 魯迅が暮らした家だ。長屋が連なった、あまり日当たりのよくない家。それが魯迅の住まいだった。当時のまま、そっくり保存したような建物が残っている地域だ。 あまり時間をかけずに発見できて拍子抜けするほどだった。 |
魯迅、最初の家 |
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探し回るには、勇気がいるが…… |
ここに魯迅は住んでいたのか。辺りをうかがいながら写真を撮る。ここにも住人はいるらしい。生活の匂いがするからだ。興奮して、騒いではいられない。 |
魯迅、2番目の家 |
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魯迅の家を発見して、静かに興奮する。 家のドアの横にモップが立てかけられている。 何とかして欲しい。魯迅さん。 |
モップを外して撮った写真 |
訪問したからには1枚 |
魯迅はこんな路地に住んでいたんだ。 |
気分が落ち着くと、魯迅が住んでいたアパートだったとのプレートを発見。目の前に打ち付けられていたのに、気付かなかった。 | プレートが打ち付けられていた。 |
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