アランヤプラテート

カンボジャ入国でもめる

1991年8月


アランヤプラテートに到着
列車は2時間遅れてアランヤプラテート駅に到着した。鉄路は東に向かっている。はるかかなたににも朽ちかけた駅舎がある。

かってタイとカンボジャとの間は鉄路で繋がっていたのである。暑い! 水を飲もうと、ペットボトルに口をつける。湯になっている。ペットボトルを頭上に振りかざし、水を浴びる。

駅前は人、人、人である。一日1本のバンコクからの列車だ。もう、到着便はない。駅前ではサムローが割り込んできて、歩くのもままならない。タクシーはないので、サムローか人力車を使うしかないのだ。

赤茶けた大地の上を、人間とサムロー、それに人力車が集団で移動していく。道路の両側は草むらだ。どうすればよいのか。わたしは、呆然と立ったままだ。




アランヤプラテートの駅舎

サムローでぐちゃぐちゃの駅前



国境へ
人々の後ろにくっついて30分も歩くと、町が見えてきた。サムローがたむろしている。
「カンボジャ、カンボジャ」
運転手に叫ぶ。ここのサムローはバンコクのそれよりも一回り大きい。

サムローを確保したわたしはカンボジャに向けて走った。さわやかな風だ。だが、道路の脇には地雷が埋めてあるのだろう。

舗装道路が終わると、赤茶けた大地を走る。
埃がひどい。タオルを口にあてる。おびただしい車である。車が国境を目指して列をなしている。反対側の道では、金属製のタライ、畳表などを乗せている。

税関と書かれた家の前を、サムローは通り過ぎてしまう。狭い道は雨が降ったのか、ぬかるみだ。そこを国境に向かう車、戻る車がひしめいている。ルールなし。割り込みし放題。


国境に向かう車の列
 
車を降り、国境へ。線路はかってタイからカンボジャまで繋がっていた。



イミグレーションへ

大八車でイミグレーションへ
原野を切り開いて整地した広場にバラックが並んでいる。とうとうやってきた。カンボジャは目の前である。

太陽は強烈だが、下はぬかるみ。雨季なのだ。どうりで、売店にはゴム長靴が積まれている。売るのではない。貸靴である。さすがだ。道路をつくらず、ぬかるみにしておけば、貸靴で儲けることができる。

バラックは商店と食堂が混在している。
ベトナム製の商品が並んでいるのはどういうわけなのだろう。タライ、手提げ袋、仏像。手工芸品が多い。中には更紗、チェコ製の帽子、ソ連製の缶切りまで紛れこんでいる。不思議なのは、ベトナム製のパリ生まれの石鹸だ。ないのは、カンボジャ製品だけかもしれない。

店の人に時間を尋ねる。
午後2時だとのこと。腹が減っている。水とぶっ掛け飯を頼む。暑い! タオルに水をかけ、顔をぬぐう。タオルが土で赤くなってしまった。カンボジャの土だ。感動!


ここから国境までは歩いていく。
少し歩いただけで、太陽の光が強すぎ、疲労してしまう。カンボジャ人が粗末な大八車に即席の座席をつくって、国境まで運んでくれる。

たったの5バーツ(28円)である。だが、バンコクのバス代の5倍だ。高い。でも、乗ろうか。

イミグレーション前の雑踏



イミグレーションで粘る

イミグレーション
テント張りのイミグレーションで立ち止まってしまった。タイ人はなにやらカードを見せては、カンボジャに入国していく。

わたしも早く入国したい。バッグからパスポートを取り出し、イミグレーションに出す。こんなときも冷静だ。ちゃんと女性の係員を選んでいる。
「カンボジャ、カンボジャ」
「ニープン(日本人)、ノー」
わたしは感動している。この暑いのにしっかりと化粧しているからだ。よく、流れてしまわないな。

この先には難民キャンプ
「日本人は入国できません」
「東京からわざわざ来たんだ。入れてくださいな」
大仰に手を広げ、さびしそうな表情をする。
「カンボジャを愛しているのに」
「日本人は駄目よ。タイ人だけ」
まったく融通のきかない女性だ。しばし人の波の中で考える。賄賂作戦か? それとも、居丈高に怒鳴る作戦か? 

上司懐柔作戦に切り替える。
イミグレーションの脇を通り抜け、男性のところに行く。もう、ここはタイを出ている。このままカンボジャに行ってしまってもわからない。でも、帰りはどうするのだ。出国印がなくて、出国しているのがばれたら、面倒なことになる。1000バーツ程度の賄賂ではすまなくなる。

とりあえず、トイレだ。
草むらに出て、大きく背伸びをする。なに? 女性が腰巻をあげて、しゃがみこんでいるではないか。彼女もか。親近感を覚えてしまう。すますことをすますと、いいことを思いついたのだ。



タイ人になろう!

「タイ人になれば文句あるまい」
それにはIDカードを手にいれよう。素晴らしいアイディアだ。自画自賛だ。いや、熱帯ボケのほうが当たっているかも。

ここにはタイ人が腐るほどいる。IDカードを売ってもらおう。ああ、カオサンロードで身分証明書を作成しなかったうかつさを嘆くのだ。作っておけば、もう、カンボジャだ。

気を取り直して、人々の中に入る。
「IDカード、IDカード」
だれも相手にしてくれない。そうだろう、国境を越えるのだから、皆、IDカードは必要なのだ。まさか、女性のカードを借りるわけにもいかない。

この国境は1か月前に開放された。まだ、警戒が厳重だ。停戦が決まりそうだといっても、まだ3派の活動は激しい。彼らはカンボジャで、砲弾を撃ち込み、列車を破壊し、夜ごとに難民キャンプで生活するカンボジャ娘をタイの軍人に提供し、生き残りを図っている。

しかし、次第に政治的意味合いは薄れ、自分たちを太らせるために砲弾をぶっ飛ばしている。砲弾撃ち込みをやめれば、戦争は終わったとして、どこからもカネは流れてこなくなる。


とぼとぼと泥田の中を歩く。国境からアランヤプラテートの郊外までバスで5バーツ。そこからまた、バスに乗り換えて町に入った。夕方だが一向に涼しくならない。バンコク行きの列車は、明日の午前6時までない。

(続く)



バンコク週報 1993年1月1日号掲載記事を加筆訂正したものです。
カオサン・ロード

100バーツ程度のゲストハウスが並んでいる。白人のバックパッカーが多い。

格安航空券を販売している代理店もある。客から預かったカネを持ち逃げした店もあるので、見極めが大事だ。




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