アランヤプラテート

旅社でたわむれる

1991年8月


ホテル探し

バンコク行きの列車は翌日の朝6時までない。とりあえず、泊まるところを確保しなけりゃ。
「このあたりにホテル、ありますか?」
本屋に行ってたずねる。なぜ、本屋? 街中で英語を話せるところは本屋くらいしかないだろう。
「ここには2軒しかありません」
若く、知的な女性がはにかみながら答える。
「きれいな人だな」
これは日本語である。
「なに?」
「いや、近くのホテルを教えてくれませんか?」
「それじゃ、リキシャを呼んできます。案内させますよ」



リキシャは角を曲がると、すぐに止まってしまう。男が指を指している。
「ここ?」
「リキシャ代、5バーツ」
ここならば歩いてこれたのに。あの娘さん、なかなかやるじゃないか。
2階建てだ。確かに何とかホテルと看板がでている。だが、崩れそうな建物だ。ほんとうにこれしかないのか。

一歩踏み入れた時点で、エアコンを断念する。ロビーなんてものはない。鉄柵で囲まれた部屋、そこが帳場だ。
「1泊、いくら?」
通じない。
「タウライ?(いくら)」
100バーツか。400円か。高いな。

部屋はなぜか3角形だ。天井から扇風機がぶらさがっている。スイッチを入れると、部屋のほこりが舞い上がった。息をしていられない。外ですごそう。寝るときだけでいい。本屋へ戻ってみたが、娘さんの姿はみえない。それじゃ、どこへ行こうか。何もするところがないのだ。汁なしそばでも食べようか。



とぼとぼと、旅社に戻る。
玄関を入ったところで、若い女性を見たのである。
「ここに泊まっているの?」
そうよ。女性は英語で答えてくれる。いやあ、英語を話せる人がいるじゃないか。
「旅行?」
「国境へきたのよ」
「バンコクから?」
「プラチンブリよ」
髪を後ろで束ねた女性は25歳くらいであろうか。

女性の部屋のドアを開ける。木製のドアだ。、なんとそこにはもうひとり女性がいるではないか。3人でバンコクのこと、プラチンブリのことを話す。彼女たちは先生をしているのだと言う。
「ねえ、わたしたちをバンコクに連れてって?」
「どうして、プラチンブリで学校の先生をしていた方がいいだろうに」
「先生、やめる。やめて、あなたと一緒に暮らす」
そんな大事なことを急に言われても。
「プラチンブリの方がいいよ。物価は安いし、のんびりとできる」
もう、しどろもどろである。



バンコク週報 1993年1月1日号掲載記事を加筆訂正したものです。
一緒に暮らす。
タイ人はその瞬間を直接的に表現する。将来もいっしょに暮らすことをイメージしているのではない。

朝のアランヤプラテート駅

切符



■ 東南アジア旅行記 目次

inserted by FC2 system