アランヤプラテート

列車で、アランヤプラテートへ

1991年8月


バンコク、ホアランポーン駅

ホアランポーン駅で迷う
1991年8月。
朝、5時30分にホアランポーン駅(ベンコク中央駅)に駆けつけた。切符を求め、水を買う。ついでに、新聞を2紙、脇に挟んだ。

アランヤプラテート行きの列車が停車している。プラットホームは11番である。見ていると、顔色は変わってしまった。冷房装置のついた車両がないし、トイレが各車両についている。

ということは、暑いので窓を開ける。トイレは垂れ流しだから、黄金水を顔に浴びることになる。5時間の列車の旅だ。車内は糞まみれになってしまう。

これはもう車内で食事などできない。どうしよう。そっと水を飲んで5時間を過ごすのか。
アランヤプラテート
バンコクの新聞はほとんど毎日、アランヤプラテートでの殺傷事件を報道している。クメール人の強盗がタイ人2名を殺害。こんな調子である。

AK47ライフルで武装したカンボジャ人がタイで民間人を襲うのだ。ここは難民キャンプがあるところでも有名である。
切符
発車は、午前6時だ。
空席はたくさんある。板張りのシート。これで5時間か。痛そうだ。ため息が出てしまう。黄金水の関係上、極力、通路側に腰を下ろしたい。それも窓際には、若い女性が腰を下ろしている席が望ましい。

だが、若い女性の一人旅なんているわけはない。アランヤプラテートは観光地ではない。難民キャンプやカンボジャの内戦が行われている地と接しているのである。この列車だって、生活の臭いを乗せた列車である。

やっと若い男女の2人連れの前に席を下ろした。すぐ話しかける。残念なことに、彼らはタイ語しか話せない。わたしのタイ語のボキャブラリーは、美しい、美味しい、かわいい、楽しい。こんな程度である。男性の前で女性にわたしのボキャブラリーを駆使するわけにはいかないじゃないか。笑顔を駆使するだけだ。

アランヤプラテート行き車内



アランヤプラテート行き発車
列車はバンコクの市街を走る。
マッカサン・スラムの横を抜ける。横揺れが激しい。クロンタン駅に停車する。ここを過ぎると、郊外だ。

駅に到着するごとに、停車時間が長くなっていく。2時間走ると、水田の中で30分の停車。プラチンブリで20分停車。次第に、時刻表に記してある時間ではアランヤプラテートに到着できないと思われてくる。そうか、時刻表があること自体、不思議なのだ。

親子連れが乗車してきた。わたしの隣は下車して空いている。乗り込んできた人たちは、ちらちら空席を見るが、わたしの隣には決して来ない。とうとう、空席がなくなったところで男性が腰を下ろした。通路には立っている人もいる。

隣の男性は寺から戻っる途中なのか。眉毛を剃り落とし、坊主頭である。子供はあたりかまわず小便をして、その水がわたしの足元に流れてくる。そんな中で列車が駅に到着した。売り子からカオニオ(おこわ飯)とガイヤン(焼いた鶏肉)を求め、むしゃぶりつく。

こんな列車だから、バンコクから5時間も乗車しても250円しかかからない。でも、倍の料金を払っても冷房装置つきの列車で行きたいものだ。
マッカサン・スラム
高速道路とヒルトンホテルに囲まれた地域にある。汚水の溜り場の上にバラックを建てて住んでいる。近寄ると、異臭がする。

夜になると、女性が着飾ってどこかに出かけていくらしい。





クロンタン
線路の脇にわたし愛用のディスコ、NASAがある。ロケットが発射されたように、張りぼてから煙が噴出す



陸路でカンボジャに入りたくなったわけ

バンコク、高速道路脇の看板
都心のホテルにからバンコクのドンムアン国際空港に行こうとしていた。

高速道路を使えば、早ければ30分で空港に到着できるのだが、事故が起きると、1時間半を要する。事故はたまたま起こるのではないらしい。かなりの頻度で発生するらしいのだ。

血まみれの青年が路上に転がっている脇に、無残な形になった車が放置されているのをみたことがある。
事故
タイでは、人の命などあまり気にしていないようだ。高速道路は車がスムーズに運行できればよい。新聞記事にはあまり交通事故は掲載されない。

その日は特にひどかった。
カンボジャのシアヌーク殿下がバンコクに滞在し、高速道路わきのセントラルプラザ・ホテルに宿泊していたからである。パタヤで開催されるカンボジャ和平会議に出席していて、これからパタヤに出発するところだった。
「あの男はいつまでもトラブルメーカーだ」
あの男などと呟いてはいるが、会ったこともない。昨夜、タイのフミポン国王に面会したテレビ放送を思い出したからである。フミポン国王の前でもみ手をしながら、しきりに弁解がましくしている殿下だった。同年輩の二人だが、30年前とは格段の違いができてしまった。1960年代は、むしろシアヌーク殿下が世界の脚光を浴びていたのだ。

セントラルプラザ・ホテル
ちょっと若く品のいいファラン(白人)が結構滞在している。客室乗務員も宿泊している。

バンコク、高速道路脇の看板
そのころ、シアヌーク殿下は側室200人を擁し、カンボジャ人とイタリア人とのハーフの少女をもっとも寵愛していた。今、その少女は殿下の第一夫人としてフミポン国王に面会していた。

決して外遊しないという、ド・ゴールをカンボジャに迎え、フランスの植民地のように振舞ったのも1966年12月のことである。対外的には中立を標榜し、オリンピックに代わる新興国スポーツ大会をインドネシアのスカルノとともに開催し、3回ももたずつぶしたり、民主主義を分かったふりをして、カンボジャ国王になるのを辞退した。そして、首相になった男は、また殿下に戻り、1970年のクーデタ以来、世界を放浪している。
タイのテレビ
ゴールデンアワーには王室のニュースを毎晩放映している。

勇壮なマーチのあと、国王の閲兵、王母への敬愛のシーン、首相、将軍の雄姿と毎晩、同じ場面が続く。

二人を分けたのはベトナム戦争であったのか。
タイは戦争に声高に反対しながら、裏ではアメリカ軍基地を提供し、ベトナムへの爆撃に飛び立つB−52Dの配属を黙認した。

ベトナム戦争中、アメリカ兵は3週間ごとに1週間の休暇を与えられた。
彼らはドル紙幣を握り締め、バンコクでつかぬ間の快楽に身をゆだねた。バンコクではドルが舞い、ホテルが軒並みに増えていった。

タイ人はしたたかだ。
常に、誰についたほうが利益が得られるかを考える。義理や人情には関係ないのだ。これに対し、カンボジャは本音も建前もアメリカの基地建設に反対した。シアヌーク殿下はもの好きなお坊ちゃんでしかなかった。
B−52D
ジェットエンジンを8基擁している。D型からH型まである。

D型は航続距離が短いのでタイのラオス国境近くに配属された。当時、グアムからは航続距離のあるG型で北爆にやってきた。

バンコク、高速道路脇の看板
こんなカンボジャに行ってみたいと思った。
せっかくなら、空路で入るのではなく、バンコクから列車に乗って、アランヤプラテートまで行き、そこからカンボジャに入りたい。だって、クメール・ルージュに遭遇できるかもしれないもの。


(続く)


バンコク週報
 1992年12月11日号掲載記事を加筆訂正したものです。
クメール・ルージュ
口紅ではありません。カンボジャ反政府軍です。今は落ちぶれて、タイの軍人とからみ、カンボジャ政府軍の武器をビルマ反政府軍に売却しているとのうわさが濃い。

AK47の価格はカンボジャで2000バーツ。6000円。ビルマ国境まで運べば15000バーツに跳ね上がる。




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