ヴァヴァン交差点から歩き始める! |
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ル・セレクト |
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ヘンリー・ミラー、ジェームズ・ボールドウィン、 映画監督のルイス・ブニュエルが愛した。 |
映画「勝手にしやがれ」でベルモンドが車で乗りつけ、 煙草を吸うシーンが印象的だ。 |
ラ・ロトンド |
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ヘンリー・ミラー、ピカソ、レーニンなどにが通った。 |
真夏の昼のひと時、客は少なかった。 |
ル・ドーム |
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暑いので、一休みした。写真のようにガラガラだった。 1917年のロシア革命前にはレーニン、トロツキーが通い、ヘンリー・ミラーも常連。ヘミングウェイの「移動祝祭日」に登場する。 |
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ラ・クーポール |
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ルイ・アラゴンからダリ、ピカソ、藤田嗣治、アルベルト・ジャコメティ、などが常連だったと。ガイドブックにある。 | |
モンパルナス大通りから裏道へ! |
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ノートルダム・デ・シャン通りに分け入る! |
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ヘミングウェイが住んだアパルトマン |
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ヘミングウェイがパリにやって来たのは1921年の暮。一時、カナダに戻り、1924年2月にパリに戻った。 彼はノトルダム・デ・シャン通りにある写真のアパルトマンに住んだ。パリで住んだ2番目のアパルトマンとなる。 |
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ヘミングウェイが通ったパン屋さんの裏口 |
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表はモンパルナス大通り |
上のアパルトマンと通りを挟んであるのがパン屋さんの裏口。ヘミングうぇいはここから入って、パン屋に行き、バゲットを買ったのだな。 |
ヘミングウェイもこの看板を見たのだろうか? |
看板を見て、上気していると、「郵便局はどこですか?」と道を尋ねられました。こっちはヘミングウェイに感動しているのだ。道なんか尋ねないで欲しい。 |
モンパルナス大通りに戻る! パン屋さんの表側 |
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ヘミングウェイがよく通ったパン屋の表(モンパルナス大通り)に回ってみた。ここから入って、上の写真の裏口に出られる。 日曜日、パン屋さんは閉まっていた。 |
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「日はまた昇る」に出てくるレストラン! |
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パン屋の直ぐ近くに、このレストランはある。 「ネグル・ド・トゥルーズ」という店名だった。ヘミングウェイが頻繁に訪問したレストラン。現在は別の名前になっている。 |
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モンパルナス大通りをポール・ロワイヤル駅近くまで歩く! ラ・クローズリー・デ・リラ |
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このままポール・ロワイヤル駅方面に歩く。 「クロズリー・デ・リラ」だ。 このレストランでヘンリー・ミラー、ヘミングウェイが小説を執筆した。このほか、エミール・ゾラ、セザンヌ、ランボー、アポリネール、セザンヌ、マリー・ロランサン、ピカソ、ゴーギャン、サルトルなどの芸術家が通った。 この日は休み。店を清掃していた従業員に尋ねると、3連休だという。ヘミングウェイのテーブルで食事をしたかったのに。これで今回は訪問できず。 |
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写真のネイ将軍像は「クロズリー・デ・リラ」の傍の広場にある。「日はまた昇る」の主人公のが見上げる像だ。 | |
ヴァヴァン交差点方面へ歩く! ロマン・ローランや佐伯祐三が住んだアパルトマン! |
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モンパルナス大通りの向こう側に渡り、ヴァヴァン交差点方面へ。 佐伯祐三やロマン・ローランが住んだアパルトマンだ。 |
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ドランブル通りへ |
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藤田嗣治のステュディオ |
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ヴァヴァンの交差点から西へ。 ドランブル通りを歩くと藤田嗣治が1917年から1924年まで、ここでステュデイオを構えた。モディリアーニが藤田に会うためににこのステュデイオにやってきたのか。 |
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その銘板があった。 | |
オテル・レノックス |
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1925年5月、ヘンリー・ミラーがアルフレッド・ペッレに会った。彼の名作「クリシーの静かな日々」の元となった生活を送ったホテル。 また、ヘンリー・ミラーは1928年から1930年まで妻とこのホテルで暮らした。 |
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ル・ローズバッド |
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サルトルとボーボワールが通ったバー。 |
薄汚い服を来た人が、店の前で寝ていた。 |
ゴーギャンが住んだオテル・ドゥランブル |
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ヴァヴァン通りの美しすぎるアパルトマン |
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ヴァヴァンの交差点を通り過ぎ、モンパルナス駅の方へ歩く。ル・セレクトの脇を北に。ヴァヴァン通りに白亜のタイルを張ったアパルトマンがある。 このアパルトマンは各階、2戸しか住んでいないそうだ。 |
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エドガー・キネの市場 |
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先ほどのアパルトマンからトゥール・モンパルナスを右に見て、モンパルナス墓地の方に歩く。 エドガー・キネの市場だ。 ある果物を見つけたかったのだが、発見できず。 |
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いい匂いがしていた。 |
この椅子は60ユーロの値段がついていた。 |
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